日本社会で生じる様々な事件、事故、トラブル、話題について、古き善き日本の情緒を愛する一人として考察するところをコメントしたいと思います。
サラリーマンの選択肢
あの船場吉兆が、客の食べ残しを別の客に使い回ししていたそうである。今年の営業再開後は一切していないと言う料理長のコメントが新聞に掲載されていたが、実質経営者が代わっていないのであるから、それも疑わしいと言わざるを得ない。

私が問題としているのは、この料理長の以下の発言である。
「恥ずかしくて表に出せなかった」
「問題だとは思ったが、社員の立場では指示に従うしかなかった」

社長から「きれいなものはもったいない。再利用できる」「使えるものは何でも使え」と言う指示があったから致し方無かったと言うことであるが、吉兆を首になったら生活出来なくなると言う事情はあったにせよ、私は「そうか、それは仕方無いな」とは言えないのである。多分殆どのサラリーマンが料理長の立場に理解を示すだろう。しかし、その考え方が多くの食品偽装事件を生み出して来たことも間違いところであろう。経営者が偽装しろ、詐欺を働け、泥棒しろと言えば、従わざるを得ないと云うのが日本のサラリーマンの平均的な生き方なのかも知れない。

現実はそう云うことだと思うが、私は哀しいことだと思う。私はそう云うことに耐え切れなかったから脱サラしたと言う面があったことを否定しない。その決断のお陰で家族に経済的迷惑をかけて来たことも事実であり、サラリーマンを定年まで勤め上げた友人達の奮闘と忍耐に敬意を表する気持ちを持っている一方、やっぱり料理長の考え方はおかしいのではないかと思う気持ちも捨て切れないのである。

私と同じく、会社の言いなりになるのが嫌であり、自分なりの夢を実現すべく脱サラした人達も少なからず居ることは間違いない。そして、私と同じようにバブル崩壊と言う憂き目に遭遇し、破綻した人々も居ることも間違いない。脱サラにはリスクが伴うことは私の骨の髄まで染み透っているのであるが、それでは、もう一方の道、即ち我が意に反することであっても経営者の言いなりになると言う道を選択出来るかと云うと、それは出来ない自分が居るのである。

おそらく、これは個々人の人生観、価値観の問題であって、生活の糧としてのサラリーマン生活と割り切るか、仕事も自己実現、自己表現の一つのパフォーマンスと考えるか、どちらが正しいかではなく、個人が自分の信念に従って選択するものであろうけれども、どう考えても私は、経営者の指示だからと言って、客の食べ残しを自分が食べることがあっても、他の客に出し直すことは出来ないと思う。読者の皆さんはどう考えられるのだろうか?