日本社会で生じる様々な事件、事故、トラブル、話題について、古き善き日本の情緒を愛する一人として考察するところをコメントしたいと思います。
人に勝つより自分に克つ修行こそ
青山俊董尼のご法話から転載させて頂きます。

相田みつをさんの詩に「受身―負ける練習―」というのがある。

柔道の基本は受身
受身とは 投げ飛ばされる練習
人の前で 叩きつけられる練習
人の前で ころぶ練習
人の前で 負ける練習です。
(中略)
柔道の基本では
カッコよく勝つことを教えない
素直にころぶ事を教える
いさぎよく負けることを教える
(中略)
その代わりころんでもすぐ起き上がる
負けてもすぐに立ち直る
それが受身の極意
極意が身につけば達人だ
(後略)

人生という土俵にあって、われわれはとかく負けの状態になるとダウンしてしまいがちである。そういう人間は逆に勝ったとき高慢になる。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表であるから、勝っておごらない修行、負けて落ち込まない修行の方が勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行といえよう。

高校や大学入試を控えてピリピリしている親子に、この相田みつをさんの詩を紹介しながら語りかける。
「一度や二度は落ちた方がいいよ。身心の柔軟なうちに上手に落ちる稽古、失敗する稽古、ころぶ稽古をするんだね。ころんですぐ起き上がる稽古をするんだね。人生、落ちること、失敗することが恥ずかしいんじゃない。落ちたこと、失敗したことにこだわって起き上がれないことが恥ずかしいんでね。昔から『失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にする』と云われているようにね。
もっと大切な学びがあるよ。ころんだこと、失敗したことをよい経験とし、跳躍台として、ストレートでゆくより、より高くより深い人生を歩む肥料にきりかえることが出来たらいいね。さらには、落ちることで人の悲しみがわかる人間になれたら、もっとすばらしい。入試とか競技というと、とかく勝ち負けしか考えないけれど、そんなことより人生の深い学びがたくさんあることを忘れないでね」と。

ある講演会場で、28代立行司の木村庄之助氏(本名、後藤悟氏)と共に講師を務めたことがある。そのときの木村庄之助氏の結びの一番ならぬ結びの言葉は「勝って騒がれるよりも、負けて騒がれる力士になれ」であった。「うん」とうなづきながら、心に深く刻んだことであった。

勝ち負けは技と力の世界であり、「負けてさわがれる」というのは、勝ち負けを越えた人格の世界といえよう。勝負の世界に生きようとする人に色紙を頼まれ、「勝ち負けだけが人生じゃない」「人に勝つより自分に克つことの出来る人間になれ」と書いて渡したことがある。

戦場(いくさ)に出づる千たび
千人の敵にかたんより
ひとり自己(おのれ)にかつもの
彼こそ最上の戦士(つわもの)なり
(『法句経』)


人に勝つことは楽であるが、自分に克つことはむずかしい。自分に克つことが出来る人にして初めて、人に負けることが出来るのであり、こういう人をこそ「大人」と呼ぶのであり、取り組みがいのある修行といえよう。
人は皆生まれながらにして俳優?
一昨日の報道番組で、中学校の現役理科教師が下着泥棒として現行犯逮捕されたと言うことを知った。
上司の校長のコメントは、例によって例の如く、「私だけではなく、他の誰もが信じられない」と言うものだった。この種のコメントは何故か教職に在る者が犯罪を起こした時に耳にする事が多いようである。

下着泥棒の理科教師は、近所では子煩悩の父と見られていたし、学校では指導熱心な先生と見られていた。この教師をあの有名な小説『ジキル博士とハイド氏』の解離性同一性障害(二重人格)者と見なす向きもあろうかと思うが、私達自身も、紙一重のところで生きているのではないかと思うのである。つまり、人は日頃は自分を善く見せる為に一生懸命に演技演出しているが、その実、正体はどうであろうかと言うことである。

テレビドラマを見ていて、いつも俳優の演技振りに感心するのであるが、俳優を専門としていない有名タレントや歌手がゲスト出演しても結構やりこなしているのを見て、私は「生来、人は俳優なのかも知れない」と思って来た。そして、人は日常生活で俳優を演じていると言ってもよいのではないかとも思ったりもして来た。

私を例にすると、世間に向けては、社長、塾の先生、テニスコーチ、仏教徒、62歳の男など、場面場面での顔がある。私生活では、夫、お父さん、おじいちゃん、おじさん、弟など目まぐるしく立場が変わるが、無意識のうちに演じ切っているように思う。恐らく、誰しもが私と同じ事だろう。

そして、その私と言う俳優が舞台を下りて楽屋裏に戻ったとき、どんな顔の人物になるであろうか。
あの理科教師の場合は下着泥棒と言う形で自己をさらけ出してしまったのであろうが、人は一皮めくると、自己を限りなく愛し、自分の欲望の満足に血眼になる性癖を生まれながらにして持っているのではないかと思う。それを端的に教えてくれるのが仏法であり、その自分を「煩悩具足(全ての煩悩を一つ欠けることなく持っている)の凡夫」と慙愧したのが親鸞なのであるが、私達も、舞台の上だけの人生に一喜一憂せずに、楽屋裏に戻ったときの自分を見詰める眼と心を持たなければ、舞台の演技すらも足元をすくわれる羽目になるのではないかと・・・中学理科教師の下着泥棒報道に思った次第である。
お花祭りの日
今日、4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日とされ、各地のお寺では、お花祭りの日として、お釈迦様のお像に甘茶をおかけするなどの行事がある。しかし仏教徒は別としても、日本国民の殆どはこの日の事を知らないのだと思う。キリストの誕生日を祝うクリスマスとは全く対照的であるのは一体どう云う訳であろうかと思う。

やはり、日本では寺院が仏法を伝える役割を主とせずに葬式や法事を司ることを日常化したために、長い年月をかけて『お釈迦様→仏教→死』と言うイメージが出来上ったために祝い事にはなり難いと云うことであろう。まことに残念なことである。

お釈迦様が本当に4月8日に生まれられたのかどうか分からない。しかし、それは大して重要なことではなく、私たち仏教徒は1年に1回位は、この世の真理である『縁起の法』を発見されたお釈迦様に感謝をし、また、そのお釈迦様をこの世に送り出した仏様(浄土真宗では阿弥陀仏)に感謝の念を形に表わして捧げる日があってもよいと思うのである。

お釈迦様がこの世にお出になられなかったならば、私たちは仏法に遇えずに、煩悩に振り廻されっぱなしの生活を送っているに違いないのである。
この時節、私は桜餅と共に美味しいお茶を戴きながら、阿弥陀如来、お釈迦様、親鸞聖人、そして私を仏法に直接的に導いて下さった多くの善智識の方々を偲びたいと思う。