日本社会で生じる様々な事件、事故、トラブル、話題について、古き善き日本の情緒を愛する一人として考察するところをコメントしたいと思います。
校長先生の自殺
昨日(10月30日)、茨城県常陸太田市の県立佐竹高校の校長先生(58歳)が自殺と見られる遺体で発見された。今、全国規模で大きな問題となっている必須科目の履修漏れが26日に発覚したばかりであり、30日は保護者説明会であったが、校長先生は29日に行方が分からなくなり30日の朝になっても帰宅しないために奥様が県警に届け出ていたと言う。

詳細が明らかにはなっていないが、「許して下さい」「頑張って下さい」と言う文言を含む遺書があるそうだ。しかし「履修漏れ」に直接触れた内容ではなさそうである。

今朝のテレビ朝日の報道番組で鳥越俊太郎氏が「教育に携わる校長の責任の取り方としては如何なものか」と批判していた。傷ましいとは思いつつもそう言う批判が世論の大勢を占めるのかも知れない。この校長先生に対して、「難問から逃げずに問題解決に立ち向かう姿を示すべきではないか」と批判するのは、まことに正論ではあるが、果たしてその批判がこの校長先生固有の立場に関して想像力を働かした上のものかどうかを問いたいのである。

私はこのニュースを聞いて、「いつか同じような事があったな」と思った。そして、かなり以前に起きた校長先生の自殺の事を思い出し、その時に書いた別のホームページのコラムを検索したところ、2003年3月27日のコラムに2003年3月9日に自殺された校長先生の事について次のような冒頭の一節と結びの一節を記載していた。

『3月9日(日曜日)、広島県尾道市の小学校校長が自らの命を絶たれました(56歳でした)。昨年、広島銀行の東京支店副支店長から、民間人校長に挑戦された方でした。

自らの命を絶たれた方には死ぬよりも辛い事があったのだと思いますので、私には批判出来ませんが、上述の校長先生にも校長先生以外の職業に素晴らしい能力を持っておられたはずだと思います。
人間には必ず苦境が訪れます。その苦境に真正面から立向かい乗り越える努力も貴いとは思いますが、乗り越える必要のない苦境もあると思います。天から自分だけに与えられた役割と能力があるはずだと思いますので、私はこれからも自らの命を大切にしたいと思います。』

広島の校長先生は、民間企業(広島銀行)から校長に転職された方でありますが、転職して1年足らずの時に亡くなられました。不運な事に、校長に赴任して早々の頃、頼りとすべき教頭先生が脳出血で倒れ、代わって赴任して来た教頭も心筋梗塞で入院して途方にくれた結果の自殺であった。

私は、今回の校長先生の自殺も、「履修漏れをどのように解決すべきか」と言う難問処理を前にして途方にくれたと言うだけ簡単な理由ではなく、未だ校長に赴任して半年の校長先生を手助け・援護する立場の人が一切居らず、むしろ責め立てる人々に囲まれての孤独な闘いに疲れての自殺ではなかったかと思うのである。

人柄が真面目で温厚と言われる校長先生だけに、むしろ古株の先生達のイジメに遭っていた可能性も有り得るのではないかと思う。これは、人間関係が未だ構築出来ていない職場のトップと言う立場に立たなければ分からない辛さなのである。殆どの人間は仕事自体の辛さだけで退職したり、果ては自殺したりする事はまず有り得ない。殆どの場合は人間関係上の疎外感・孤独感が原因である。少年少女のイジメ自殺も、もの悲しく表現のし様が無い孤独感からのものであると断言してよいだろう。イジメられている子を慰め励ましたり出来る子は居ない、それは、そうすることによって、自分もイジメのターゲットになるかも知れないと言う恐怖心があるからである。そして、両親には心配を掛けるだけだと思い相談が出来ないと言うのが実情なのである。

私は、サラリーマンとして職場のトップの立場にもなった経験もあり、また数十人の従業員のトップに立つ社長をした経験もある故に、二人の校長先生の孤独感をひしひしと感じ取れるのである。しかし、私は今も上述した『人間には必ず苦境が訪れます。その苦境に真正面から立向かい乗り越える努力も貴いとは思いますが、乗り越える必要のない苦境もあると思います。天から自分だけに与えられた役割と能力があるはずだと思いますので、私はこれからも自らの命を大切にしたいと思います。』と言う気持ちを持ち続けているし、持ち続けたいと思うのである。
発達障害のこと
最近、よく『発達障害』と言う言葉を聞く。昨年、今年と引き続いて衝撃的な殺人事件を起こした二人の少年が審判過程で『発達障害』と言う精神鑑定を受けた事からだろう。

上記の事件とは、一つ目の事件は、昨年2月、大阪府寝屋川市の小学校で、教職員3人が殺傷された事件を起こした少年に大阪地裁が懲役12年を言い渡したが、この事件を起こした少年は広汎性発達障害と診断された。二つ目の事件は、今年の6月、奈良県で起きた医師宅放火殺人事件では、奈良家裁は、殺人と現住建造物等放火などの非行事実で送致された長男に対し、中等少年院送致とする保護処分を決定したが、この少年も広汎性発達障害と診断されたのである。

ここで注意しなければならないのは、発達障害者が必ず事件を起こす訳ではないと言うことである。事件を起こす原因の中の一つではあるだろうが、発達障害だから事件を起こしたのではないと言う事である。そして、この「発達障害を持つ子」は、一般的には「少し変わった子」と言う程度の認識で見過ごされ、なかなか認識され無いために、そのまま放置されてしまう事が問題である。発達障害は、治療に依って治ると言うことを世の中全体が知る事こそが大切である。

聞くところによると、日本は、『発達障害』の診断・鑑定が出来る専門家が徹底的に不足しているようである。早期に『発達障害』を認識出来れば、人間関係で悩むことや、仕事のマッチングに悩むことや、イジメに遇ったりすることも防止出来るかも知れないのである。また、『発達障害』の範疇ではないのであろうが、あの、女子高校生に対するワイセツ行為で度々逮捕されている植草一秀元早稲田大教授も、頭脳の一部に欠陥があっての事だと考えれば、なんとなく納得もいくし、逮捕、罰則だけではなく、何らかの精神治療を施してやるべきだと思うのである。

人間には、それぞれ個性と言うものがある。それは、個人個人、頭脳のある部分の発達具合が異なるからであろうから、『発達障害』も決して他人事ではないとも思うのである。これから鑑定出来る専門家を養成すべきであるし、一般の我々も、『発達障害』に関心と自己チェックも必要だと思うのである。

自身も『発達障害』を持つ精神科医である、沖縄在住の、後藤健治医師のブログには、悩める多くの人々からのアクセスがあると言うことである。アドレスは、http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/。参考になればと思う。また、ブログ共育広場にも、発達障害について申し述べているが、インターネットで検索した別の説明を下記に転載したい。

発達障害(はったつしょうがい/developmental disorder)は、一般的に、乳児期から幼児期にかけて様々な原因が影響し、発達の「遅れ」や質的な「歪み」、機能獲得の困難さが生じる心身の障害を指す概念。広義での軽度の知的障害者に当て嵌められる事が多い。提唱者および支持者によると、発達障害児の示す発達の「遅滞」や「ゆがみ」は、決して不変のものではなく、適切な学習環境の環境設定をする事により、発達を促し、「ゆがみ」を変容していけるものであるとされる。遅滞や歪みとは捉えない考え方・立場もある。
心理的発達に関する障害というと、愛情や育ち方が悪かったために正常に発達しなかった、というような印象を与えるが、発達障害に含まれるのは全て生物学的要因による障害であり、養育態度の問題など心理的な環境要因や教育が原因となったものは含めない。大多数は先天的であり、そうでないものも比較的低年齢に生じた他の疾患の後遺症による。
代表的なものには、
•精神発達遅滞
•広汎性発達障害(自閉症・アスペルガー症候群・特定不能の広汎性発達障害など)
•特異的発達障害(学習障害(LD)、運動能力障害)
•注意欠陥・多動性障害(ADHD)
などがある。
ADHDは多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害の一つ。DSM-IVによる正式名は注意欠陥・多動性障害 (AD/HD: Attention Deficit / Hyperactivity Disorder) 。子供ではICD-10によるほとんど同様の症状を指す多動性障害(たどうせいしょうがい、Hyperkinetic Disorders F90)の診断名が使われることが多い。その症状により様々なタイプがあり、注意力を維持したり、様々な情報をまとめることを苦手とすることがほぼ全ての場合共通とする。DSM-IVでは症状に従いさらに以下の3種に下位分類がされる。マスコミ等一般のレベルでADHDと同様の文脈でつかわれていることもあるADDはそのうち多動性が顕著でない場合である不注意優勢型に相当する。
•多動性・衝動性優勢型
•混合型
•不注意優勢型 (ADD)
日ハム日本一
今日、プロ野球日本シリーズ第5戦が行われ、王手を掛けていた日ハムが4連勝して日本一に輝いた。
私はテレビで全試合を観戦したが、勝負の分かれ目は、第2戦の何回かは忘れたが、後半に入り、確か1点負けていた日ハムの攻撃は、ツーアウト、ランナー2、3塁でバッターは金子選手だったと思うが、次打者はピッチャー。ピッチャーには代打が起用されるであろうが、1塁が空いているから、当然、敬遠すべき場面だった。それまで好投していた山本昌投手のところに落合監督が赴いたが、山本投手の意向を尊重したのか、敬遠指示をしなかった。

私は、一緒にテレビを見ていた妻に、これが日本シリーズの勝敗の分かれ目になる、こんな事をしていたら、中日はきっと負けると断言した。妻も覚えていて、「お父さんの言う通りになったね」と言った。これは勿論、結果論ではある。山本昌投手はそれまで日ハム打線を完璧に抑え込んでいたのであるから、逆に、強気の采配として功を奏する場合だって有り得るからである。従って、落合監督も山本投手をも責めてはいけないと思う。

しかし、敬遠しないでヒットを打たれても、満塁にしてからヒットを打たれても2点取られるのは同じ事であるから、選手会長でもあり、過去に首位打者にもなった金子選手と勝負するのは、弟1戦を勝ち取った余裕と云うよりも、調子に乗り過ぎているのではないかと、私は思ったのである。

私は長年テニスのプレーヤーであったのでスポーツの勝負のアヤと云うものを知っている積もりである。実力五分五分の相手の場合、優勢に進めている試合でも、少し気を抜いても勝てると思ってしまうと、思わぬ逆転負けに至ることもあったし、その逆も経験した。また、他の人同士の試合でも、同じような逆転劇はそう珍しいものでは無かった。

「勝敗は、下駄を履くまで分からない」とはよく言われる事であるが、こ言う言葉がある事自体、スポーツの勝敗が、一瞬の心の迷い、気の緩みが逆転劇を生む事が多い証拠ではないかと思う。

そう言えば春先のWBCも、世界最強と言われたドリームチーム・アメリカの気の緩みが、結果的には誰もが殆ど諦めていた日本の逆転世界一を生み出したのであった。だから、勝負は、スポーツは面白いし感動を与えてくれるのであろう。
日本の核武装反対論
日曜日の報道番組で、元防衛庁長官石破茂氏は、議論する事を容認しつつ、日本の核武装には反対する意見を述べていた。むしろ、日本が核保有するメリットは無いことを議論によって明確にすべきだと言う意見だったと思う。

反対する根拠は、核保有の為の開発を始めるに当たって、先ずはNPT(核不拡散条約加盟国)から脱退しなければならないことになり、それに伴って核の原料であるウラン鉱石の輸入が出来なくなる故に、やがて原子力発電設備も動かせなくなると言う日本の死活問題と、日本が持てば、韓国も持ち、台湾も、そして、あらゆる国が核保有に走り出す事により、核の抑止力が効かなくなり、核を保有する意味自体が無くなると言う根本的な問題が主たる論点だったと思う。

石破氏の言う事が正しい予測かどうか、私には分からない。しかし、成る程とも思える面もあり、やはり、専門家を交えた議論が必要だと思う。

また、これは私見であるが、日本が核開発に走り出すならば、当然アメリカとの同盟関係は少なくとも現在のままと言う訳にはいかないであろうから、日本は本格的な軍備を持たねばならない。そうなると、自衛隊は軍隊になり、専守防衛ではなく、いざとなれば、自衛隊員は命をかけて闘う戦士になるわけであるから、そんな積もりで入隊していない自衛隊員の中から辞める者が続出するであろう。そうなると、韓国と同様に、日本にも徴兵制が必要となる。果たして、日本の親達が、子や孫が徴兵される事態までをも容認して、核保有に賛成するであろうか・・・。

日本が核武装するということは、そう言うことまで考えて、議論しなければならない程のことなのであるが、そうかと言って、核の被害者だからと言うことだけで、アメリカの核抑止力に依存しながら、世界に向けて核廃絶を訴えて行くのも、単細胞過ぎはしないかと思うのである。

今日の朝日新聞に、哲学者の鶴見俊輔氏(84歳)と姜尚中(カン・サンジュン)東大大学院教授の『核と戦後民主主義』と言うテーマでの対談が掲載されていた。鶴見氏はこう言う。「戦後、連合国軍総司令部で憲法起草を担当したアメリカ人が東京に来た時、そこは焼け野原だった。その風景を前にしてアメリカ人としてではなく、人間としての感慨がわき出たんでしよう。ひどいことを人間が人間にするもんだなと。その風景が憲法の前文、戦争の放棄の9条につながった。外国人が関与したから現在の憲法は駄目だなんてことは決してない。原爆の発明は人類の歴史にかかわる。必要もないのに落とした原罪がアメリカにはある。これを日本から筋の通った言葉で突き返すのが9条の核心にある問題だ。」と。

一方の姜尚中氏は、こう言う。「日本は、9条の根幹に二つの被爆体験を持っている。それをもっと掘り起こせば、アメリカと北朝鮮の核をうって返せる。痛みの中から生まれた憲法の、痛さの原形を省みず、押し付けか押し付けでないかという議論をしているのは、あまりにもったいない。この60年間、被爆とは何かをアメリカに分からせるのが日本の責任だった。アメリカがそれを分かっていないということの延長線上に、北朝鮮の核をはじめ核拡散の問題もある。このままだと、核という魔物に乗っかった平和しかないことになる。」と。

お二人の意見を聞くと、それはそうだなと思う。しかし、この人間社会は、大昔から、弱肉強食の動物社会である。力の強い者が権力を握り統治して来たと言うまぎれも無い歴史がある。このお二人のような平和主義者が世界を統治する立場に立つ日が来るとは思えない。小さい組織から大きい組織に至るまで、そのトップに君臨出来るのは、人格者や平和主義者では有り得ないと言うのも現実なのである。お二人の意見は、やはり理想論ではないか、理想論を並べ立てている間に、日本国民は再び核の洗礼を受けないとも限らないのではないか・・・・。

前段では、核武装が招く日本の孤立化と徴兵制度と言う現実を述べた、そして後段では、核武装を放棄し核拡散防止を訴えて行く場合には日本国民が再び被爆しない保証は無いと言う現実を述べたのであるが、簡単には結論が出せない問題だ。やはり、冷静な国民的議論が必要だと思うのである。そして、国民の大半が納得する道を選択すべきだと思う。
日本の核武装議論について
麻生外相の核保有に関する発言が野党の餌食になっている。野党の質問に対して、麻生外相の国会答弁は、「隣の国が核兵器を持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」「無知なままいくより、きちんと勉強した上で持たないというのも一つの選択だ」「言論を封鎖するという考え方にはくみしない」などであったが、この答弁に関して、今朝の朝日新聞は社説で、『外相の答弁は不適切だ』とした。その理由は、『政府の立場は「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を維持することで一貫している。安倍首相も「この話はすでに終わった議論だ」とはっきり語っている。なのに、その政府で外交政策の責任者をつとめる人物が「議論を」と言えば、では日本は政策変更を考えているのか、と受け取られる恐れがある。間違ったメッセージを世界に発しかねない。』と言うものであった。

朝日新聞は、反体制主義であり、政府・与党を批判することで、購読部数を確保しようと言う経営方針と見受けられる故、その線に沿った社説を担当編集委員が書いたものと理解しているが、主張する外交を表明している安倍政権に比べて、何と保守的で安全運転主義の報道機関なのかと、50年間と言う永きにわたって愛読して来た者として、極めて情けない気がした。

核保有を断固反対し、核廃絶を訴えることによって、世間から激しく批判を受けることはないだろう。むしろ、人類愛・命の尊さを背景に、核廃絶を声高に主張することは、世界平和を願い、弱者に優しい立場に立つことであり、平和が当たり前と思い込んでいる現在の日本人の大方から支持を受けるのかも知れない。

しかし、この地球で生きる命あるものは、弱肉強食の宿命にある事を忘れてはならないのである。自分の生命を守り、子孫に命を繋いで行こうとするのは、生物(動植物)の動かしがたい本能なのである。人間も特別な存在ではなく、ジャングルで命を奪い合う動物達と基本的には変わらない事を自覚しなければならない。現に、国連の安保理常任理事国の五カ国は、並外れた数の核爆弾を保有することを許され(自分達で取り決めて、許し合っているのであるが・・・)、結局は、国際舞台での発言力は日本の比ではないのである。日本が幾ら国連の運営資金の20%を拠出していても、所詮は、弱小国家であり、中国と対等な外交交渉も出来ないし、ロシアにも北方四島は奪われたままであり、同盟国とは名ばかりで、アメリカの言いなりに動かなくては生きていけないのが現実なのである。

同盟国と頼りにするアメリカが、拉致問題の解決に核の威力を発揮してくれたことは無いし、北方四島の返還に力を貸してくれそうにも無い、中国の領海侵犯を、同盟国として力を貸してくれたことも無いのである。今回ライス国務長官が日本の防衛に関して次の様に、かなり突っ込んだ表現をして見せてくれてはいる。『米国はいかなる北朝鮮からの脅威にも対処する自信がある。核の傘による日本の防衛は非常に強力な同盟上の責務であり、必ず実行する。東アジアの安定を守ることは、米国自身の国益にも完全にかなう。日本に対する攻撃は、米国に対する直接の脅威と見なす。米国はあらゆる面で抑止能力を備えており、北朝鮮の行動に対して、あらゆる面で反応できる。ミサイル防衛についても協力を強化していく。米国の日本防衛について、北朝鮮側に誤解する余地は全く無い』と。

恐らくは、日本の核武装論を鎮めるためにも敢えて、これまでに無かった強い意思を表明して見せたのであるが、英語の表現がどうなのか分からないが、「日本に対する攻撃は、米国に対する直接の脅威と見なす」と言う表現に、いざと言う時のアメリカの行動が予感出来る。つまり、「日本に対する攻撃は、アメリカへの攻撃ではなくて、脅威でしかない」のであるから、直ちに反撃には出てくれないし、ましてや、日本国民に犠牲者が出る前の先制攻撃はしてはくれそうにないのである。しかし、それは無理からぬことではあろう。アメリカがテロ攻撃に遇っても、アメリカの若者達が、戦地で血を流し、命を掛けて闘っていても、日本の若者達は、法律上傍観者でしか有り得ないのであるから、戦場に立つことは無いのである。同盟国と言えども、決して対等な立場ではないのである。アメリカを批判する資格は日本の我々には無い。

要するに、同盟国の協力・支援を仰ぐ必要もあるけれども、最終的には、日本は日本独自の力で、日本の国民の生命と財産を守らねばならない事を忘れてはならないのである。60年前の日本も、また最近のイラクも、結局は核の抑止力を持たなかったが故に、アメリカに攻撃され占領されたことを冷静に直視しなければならないと思う。そう言う歴史に学んだ北朝鮮は、というよりも金正日は核保有を断固目指しているはずである。

このような世界の情勢の中で、日本が唯一の被爆国として、たとえ再び第2の被爆国になる可能性があったにしても、断固核廃絶を訴えていくのか、或いは、二度と核の犠牲者を出さない為に抑止力としての核兵器を保有するべきなのか、或いは、非核三原則を廃棄し、アメリカの核を持ち込ませて、本当の意味で核の傘の下に入るのか、麻生外相が言うように、公に開かれた議論を始めることは大切だと思うのである。
核武装議論について
今朝の朝日新聞に、麻生外務大臣も、中川政調会長が「核保有の議論があっていい」と発言したことについて「タイミングのいい発言だった」などと支持する考えを表明したと言う記事が掲載されていた。中川氏の発言は結果的に北朝鮮の核武装を抑止する効果がある、と言う趣旨の説明をしたと言うことも合わせて記載されている。

また、麻生氏は、ブッシュ大統領が中国の唐家璇(タンチアシュワン)国務委員と会談した際、「中国が北朝鮮を抑えないと日本が核を保有するようなことになる」と述べて北朝鮮への働きかけを求めたと言う話も披露したらしいのである。

ここへ来て、日本の核武装論が表舞台に姿を顕わしつつあるように思うが、私は、このような情勢に反対する立場には無い。色々と迷いつつ考察したのであるが、抑止力としての核保有をしなければ、日本が再び第2の被爆国になる可能性すらあると考えねばならないと思うからである。日本は、日米同盟があるから、アメリカの核の抑止力によって、絶対に隣国からの核爆撃を受けないとは確信出来ないと思うからである。

昭和20年の被爆も、もし日本が核保有国ならば、避けられたはずである。核爆弾を持っているアメリカに丸腰状態で無謀にも立ち向かったA級戦犯達の罪は重い。広島、長崎の被爆地の人々が核廃絶を訴える気持ちは十二分に理解出来るものであるが、核廃絶を訴えながら、結局は、再び被爆国になっても致し方無いとは、私は考えられないのである。もし、国民の総意として、それでも核保有はしない、非核三原則も守るという決意をするならば、それはそれで真に崇高な考え方であり、私も同意せざるを得ない。

北朝鮮の核実験を契機として、日本は、国民の安全をどう担保するのか、机上の空論でない真剣な議論をすべき時に来ていると、私は考える。中川氏の「核保有の議論はあっていい」と言う発言を支持するものである。
いじめ自殺の報道姿勢について
福岡の中二男子のイジメによる自殺に関するマスコミでのコメンテーターの意見は、学校批判、先生批判の一辺倒である。揃いも揃ってであることに、私は不快感を持っている。マスコミは常に体制批判の立場である事は承知しているが、コメンテーターの中に一人位は、第三者的な冷静なコメントが欲しいと思うのである。

学校側に原因と責任はあろう。けれども、自殺直前にトイレで彼に下腹部を露出させようとした(或いはさせたかも知れない)イジメた側の少年達の罪と原因に一切触れないコンメンテーター達に、私は大いに失望している。また、イジメられた側の親御さん、イジメた側の親御さんを含めた生徒達の父兄側には一切問題は無かったとは言えないと私は思う。学校側だけを批判し糾弾することで済まそうとするマスコミや父兄の姿勢が容認される社会である限り、私は、学校からイジメは無くならないし、不幸な出来事が続くのではないかと危惧するものである。

最近の報道も、また社会全体も、何かに付けて偏り過ぎる傾向にある。ハンカチ王子は理想の少年一辺倒、亀田興毅君はバッシング一辺倒である。また、一昨日の日曜日に、「日本の核武装に関して議論することを否定しない」と発言した中川昭一自民党政調会長は、マスコミのみならず、党内外からも批判の嵐が吹き荒れている。核保有国に囲まれた日本国民を核の脅威から守るにはどうしたら良いか、事情が大きく異なってきた東アジア情勢を鑑み、国民的議論は必要だと私も思う。理想論を語り続けて、再び被爆国になることは絶対に避けねばならないはずである。しかし、それでも、核廃絶を訴え続けると言う決断を国民の総意としてするならば、それはそれで立派なことである。何も議論せずにこのまま漂流する事の方が危険ではないかと思う。

日本人は、もう少し、冷静沈着で複眼思考をすべきではないかと、特に最近思うことである。

中学2年生のいじめによる自殺
今月11日、福岡の中学二年生の男子(13)のいじめを苦にしての自殺事件があった。北海道の滝川市の6年生女児の自殺問題(自殺は昨年でしたが)が報道番組で騒がれて間もない日である。何故か直後の新聞報道は無かった。イジメによる自殺と言う遺書が見付かってから漸く報道関係者がニュースとして取り上げたのだろう。原因が当初、生徒のイジメというニュアンスであったが、そのイジメが中学一年の時の担任のイジメ(カラカイ)に端を発するものであると言うことが分かり、更に騒ぎは大きくなった。

今日の報道番組では、自殺した少年の家に、中学校の校長、教頭、中一の時の担任、そして教育長達が謝罪(?)に訪れ、遺影の前で両親に学校側が激しく責任を追及される場面が映し出されていた。
特に、中学一年の時の担任には極めて激しい叱責の言葉が投げ付けられており、聞くに堪え難い部分もあった。

少年は、自殺する直前、学校のトイレで、数人の生徒に囲まれて、ズボンを脱がされていたと言う。多分、それと同じレベルのイジメが日常的に行われていたはずであるが、そう言うイジメに、何故学校も両親も気付けなかったのだろうか。イジメが見えないところで起こっているからか、或いは、イジメをイジメではなくて、単なる“ふざけ”と見られているからなのか・・・。北海道滝川市の件が問題になった時、私は、塾の生徒(小学5年生)に、学校でのイジメの存在について聞いてみたが、「自分に対するイジメも、周りにもイジメは無いと思う」と言う答えだった。

しかし、未成熟の児童や少年少女の集団の中で、イジメが全く無いと言う方が異常だと言う見方も出来るのではないか。と言うことになると、イジメが明確に捉えられていないことこそが問題だと言う面があるのではないかと思う。イジメは、大人の社会にも当然あるものである。私も中学生時代にも遭遇したが、サラリーマン時代にもイジメに遇ったことがある。未成熟な大人が増えている上に、格差が広がっている中での精神的鬱憤が溜まっている大人社会においても、イジメには敏感でなければならないと思う。

学校、職場、地域社会にも、イジメは必ず存在すると言う前提で、見守り合う必要があるのではないか。そして、特に学校内のイジメに関しては、単に学校側、先生だけを責めるのではなく、父兄と学校が相協力して、子供の内面的な異常に気付いてやれる信頼関係を築く努力をし始める必要があると思う。
核実験は嘘だった?
国連安保理で、北朝鮮の核実験に対する制裁決議のレベルに関する調整が最終段階に入っているようであるが、核実験実施そのものが嘘だった可能性が取り沙汰され始めている。核実験の証拠となる生成元素(アイソトープ)が、どの国の分析でも見付かっていないからであるし、何よりも、爆発力が余りにも小さく、核爆発によるものとは断定出来ないからでもある。

考えて見れば、核実験と言うショッキングな事態に我々は冷静さを失い、あの国が、平気で嘘も付くし、約束も破る国家である事をすっかり忘れていたようである。ミサイル発射、核実験声明と成功声明から明らかであるが、あの2002年9月17日のピョンヤン宣言第4項の後段部分、『双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した』などは、はじめから守る積もりが無かったのである。

完全な核爆発を起こすには、起爆装置の製作精度はかなり高いレベルが要求されるらしい。今年の8月、この精度測定に必要な機器を不正輸出した株式会社ミツトヨの経営幹部が逮捕されたのであるが、この起爆装置の精度確保に必要だったからである。

核実験が本当に為されたとしても、また嘘だったにしても、このような約束も守らない、平気で嘘をつく国家の存在は、世界平和実現の障害になるのであるから、国連の力で以って、閉鎖的国家から開かれた国家へと変貌させねばならないと思う。
またしても民主党に失望させられた
今日(10月11日)の参議院予算委員会での出来事である。民主党の森ゆう子議員が質問者として登場し、拉致問題に絞って、主として安倍首相に質問した、最初は、拉致問題に情熱を傾けている首相を持ち上げていたが、結局は、いつもの事ながら、安倍首相を困らせる事が目的の質問内容であり、先ず、その質問の低級さに失望させられた。その質問は「拉致被害者の具体的な救出方法はどんな事を考えているのか?」と云うものであったが、具体的な妙案があれば、とっくに拉致問題は解決しているはずである。具体的な有効な手立てが無いから困っている訳であるから、答えられるはずが無い。また、よしんば、具体的な妙案が生まれていたとしても、国家の機密事項を国会の場で公表するというような愚かなことはするはずが無いだろう。

また、もし森ゆう子議員が本当に拉致問題に真剣に取り組んでいるならば、具体的な案を一つ位は提案した上で、政府の見解を正すべきであろう。それも、やはり、北朝鮮に知られない形で、内々でやるべきだと思うのである。国会で議論すべき問題と、公の場で議論する事が国益を失する問題を峻別して質問するのが、大人の政党ではないかと思うのである。

また、もう一つ森ゆう子議員は不適切な質問をしてしまったのである。数ヶ月前に、“ガセネタ”と言う小泉前首相の言葉が有名になった永田議員が辞職するに至ったメール問題を直ぐさま思い浮かぶような質問であった。雑誌『週刊現代』の10月21日号の記事を、「よく調べてはいないが」と言う前置きで、拉致問題に関する安倍首相(官房副長官時代)の裏取引の存在を中国朝鮮族の大物実業氏の証言として読み上げたのである。安倍首相が官房副長官時代に「先に帰国した5人の拉致被害者の家族8人(子供たち7人とジェンキンス氏)を帰国させたら、拉致問題は一件落着した事にする」と言うような発言をしたと言うのである。これに対しては、勿論、安倍首相は言下に否定し、事実を調べもせずに国会の場で取り上げた森ゆう子議員に「失礼だ」と少し声を荒げて一蹴した。

結果的には運営委員が集まり、森友子議員の発言内容を精査することになったのであるが、週刊誌の記事内容の中には、眉唾ものが多く含まれている事は今や常識となっているのではないか。記事内容の裏も取らずに、国会の場の質問に取り入れたことは、永田元議員のメール問題と変わらないのではないかと思う。

森友子議員の質問内容全てに関して、疑問を感じたのは、多分私だけではないだろう。細野議員の不倫疑惑、議員パスの不正利用疑惑と合わせて、小沢民主党は、この半月でかなりの票を失ったものと思う。良い船出をした小沢民主党も、結局は自民党と闘う前に内部要因によって瓦解することになろう。少なくとも、私は余程の事が無い限り、来るべき選挙で民主党に一票を投じる気にはなれないと思う。
北朝鮮への制裁決議に思う
国連安保理で、軍事行動に移る前の段階である経済的制裁、外交的制裁の決議に向けての協議が為されている。そして、北朝鮮との同盟関係にある中国以外の14ヶ国(ミサイルの時の制裁決議には反対したロシアを含む)は制裁決議賛成で一致している模様だ。常識的に考えると、中国は、同盟関係にある国への制裁実施が義務付けられる決議に賛成は出来ないであろうから、決議に欠席する事が最大の譲歩となろう。

それはそれとして、制裁決議は(出席理事国)全会一致で認められる事になろうが、果たして、制裁が有効に機能するのかどうか、極めて疑わしい。制裁の影響を直接的に受けて困窮するのは一般国民である。制裁が長引けば、困窮するのではなく、ひょっとしたら百万人単位の国民が餓死する可能性が高いと思われるが、軍幹部、政府高官達には制裁の影響は殆ど無いものと予想される。少なくとも、1、2年の間は、と云う前提ではあるが・・・。

そして、最高指導者の金正日の生活は全く影響を受けることなく、これまで通りの優雅な生活を続けることになるだろう。そして、最悪のシナリオ(アメリカの平壌へのピンポイント攻撃)になったとしても、同盟国中国に亡命させて貰って、命は存(ながら)えられると踏んでいるに違いない。だから、金正日は、制裁決議されようがされまいが、何とも思っていないはずである。

イラクの場合も、犠牲になったのは一般市民である。アメリカ側の犠牲者も、兵士達と言っても一般市民である。そして、悪政・圧政の主導者フセインは相変わらず生き続け、安全な場所で食事を与えられ、テロからも守られている。何時の世も、結局、一般市民・庶民が命を奪われる、これが制裁の分かりきった結末なのである。制裁の犠牲者は常に一般市民・庶民なのである。

であるからして、制裁決議も良いが、何とか、一般市民・庶民が犠牲にならない制裁の方法はないものかと思う。残念ながら、素人の私には全くその方法は思い浮かばない、専門家に対して鋭意検討を願うばかりである。
北朝鮮の核実験声明と日本
北朝鮮の核実験声明に対して、国連安保理(日本が議長国)は非難決議を全会一致で採択した。何と言うことを・・・、と怒りを感じたのは確かであるが、一方で、既に核を保有国し公認されている国連常任理事国の五カ国、米(1万800発)、ロ(8600発)、英(200発)、仏(350発)、中(400発)、そして公認はされていないのに核を保有しているインド(30−35発)、パキスタン(24−48発)、イスラエル(200発)の存在があるのはどういうことであろうか。だからこそ、核の抑止力で以って自国或いは体制を守らねばならないイラン、北朝鮮が核保有国になろうとしているのではないかと思う。

既に議論は尽くされているのであろうが、常任理事国は核保有を公認され、それ以外の国は、公には認められないと言うのは、如何にも不公平である事は確かであり、イラン、北朝鮮の気持ちも分からないではないという意見を持つ人々も決して少なくないであろう。私も、核は何れ人類を破滅させる、人類が発明した究極の兵器だと考えているので、新たな核保有国の出現は許せない。しかし、かと言って、常任理事国が核保有を公認されている事にも納得出来ていないのである。

そして、唯一の核爆弾の犠牲国である日本が、アメリカの核の傘の下に隠れ、そして守られながら、北朝鮮の核保有を非難する資格は無いのではないかとも思う。暴力団に守られながら、暴力追放を声高に主張している市民運動家のようなものではないかとさえ思うのである。

核が抑止力になって、戦争が回避されている現実を凝視しなければならないと言う意見もあるのだろう。しかし、だからこそ、自国が核の傘に守られていないと考える心配性の国は、抑止力を持とうとして核開発に走るのではないか。日本は、いざとなればアメリカが守ってくれると信じているからこそ、核保有能力がありながら、核開発をしないで済んでいるのではないかと思うのである。

核爆弾被爆国が、核武装によって守られて平和を享受し、そして隣国の核武装化を非難する、これはどう考えても、真理にそぐわない、そう長続きする状況ではないと考えるのだが、どうだろうか・・・。

情けないながら、私も、二つの極端な意見が私の心の中から聞こえて来ており、こうすべしと云う明快な結論には至っていない。つまり、現実路線で、日本の技術力と経済力を生かして、常任理事国並みの核大国を目指す方向と、世界唯一の核被爆国として、非核三原則(作らず、持たず、持ち込ませず)を堅持し、アメリカの核の傘の下からも抜け出し(=アメリカとの同盟関係を解消し)、永世中立国(国際法、いかなる戦争からも中立を保つ義務を負い、同時に、いかなる国家からも領土を侵されないことを保障されている国家。スイス・オーストリア・リヒテンシュタイン・トルクメニスタン・コスタリカがこれにあたる)として歩む方向である。

しかしながら、調べて見ると、永世中立国というのは、軍隊を持たないかと言うとそうではないらしい。スイスもオーストラリアも軍隊を持ち、いざと云う時は、国民皆兵というのが真相らしい。ただ、他国が侵略しても、資源も技術力も、人口も少なく、他国が侵略した場合のメリットよりデメリットが大きい国しか永世中立国とは認められないらしいのだ。

永世中立国の現実がそうであると言うことになると、結局は人間も動物であり、生存競争の中で生き抜いていかねばならない存在なのである。すなわち、生命があると言う限り、いざと言う時は、自分は自分の力で守らねばならないと言う宿命を背負っていると考えねばならないのかも知れない。そう考えると、世界で一番核の有効性を体感している核被爆国として、日本は、早急に抑止力としての核武装化を進めねばならない事になってしまう。平和ボケの日本は、現実として、核武装化された国々と国境を接しているし、そして何よりも、アメリカの若者達がいざと言う時に、本当に我々日本人を守る為に血を流してくれるのか、甚だ疑問である以上、自国の安全・安心をどう言う方法で確保し続けるかの議論を真剣にすべき時に来たのかも知れない。北朝鮮は、平和ボケの日本の背中を押してくれたと考えるべきなのかも知れない。
賞味期限切れの人寄せパンダ
今日の国会予算委員会で、あの田中真紀子さんが質問に立った。冒頭、安倍首相を子供扱いし、「小さな子供がパパの革靴を悪戯(いたずら)で履いて道路に出ると、右へ右へ歩いている感じで危なっかしい」とからかった後で、北朝鮮外交を金正日ペースに終わっているとして痛烈に批判したが、自身が外務大臣の時に、公私混同したり、子供っぽい強引な人事などで物議をかもし出し、結局は外務省改革に失敗し、その座を去らざるを得なかった。そう言う経緯は国民の頭に刷り込まれており、心ある国民ならば、今日の田中真紀子さんを苦笑しながら眺めていたに過ぎないのではないか。

国民は、驚くほど馬鹿な面もあるが、意外と人物を見る目は的確且つ厳しい面がある事を、田中真紀子さんも、今回田中氏を質問者に登用した小沢代表も認識しないと政権奪取はとても出来ないと思う。田中真紀子さんは、田中角栄と言う親の七光りを浴びて、過去の一時期輝いただけの人であり、今ではもう、国民の絶対的支持を得た小泉さんによって既に葬り去られた過去の人である。表題に掲げた『賞味期限切れの人寄せパンダ』と言う命名は的確だと思う。

田中真紀子さんの質問の目的は、国民の為の政策論議にあるのではなく、安倍首相を蔑(さげす)んで、自分の存在を誇示するところにあるように感じられ、国会を私物化しているように感じられ、実に不愉快だった。それに比べれば、後の質問者である岡田克也元民主党代表の質問は、国民の為を考えた真摯なものであり、救われた想いがしたのは私だけだろうか・・・。格差社会で苦しむ我々庶民を救い上げる為の真剣な政策論議を求めたい。
心でっかち
10月3日の朝日新聞の朝刊(25面)に、『「教育再生」への一つの視点』として、『心でっかち』というコラムがあった。
朝日新聞編集委員の根元清樹氏が書かれたものであるが、私は、『心でっかち』と言う言葉にはじめて出遇い、興味深く読んだ。
『心でっかち』とは、『頭でっかち』と云う「何でも理屈・理論で片付くものだ」と言う考え方に対して、精神論だけで、つまり、何でも、人間の心を入れ替えれば物事は片付くのだとする考え方を『心でっかち』と言うようである。

この『心でっかち』と言う言葉を作ったのは、北海道大学の山岸俊男教授だそうであるが、要約すると、「ひとの行動は、他の人達がどう行動するかに大きく依存している面があり、一人一人に『心を入れ替えなさい』と要求する発想には、人は完全に独立して自分の行動を決めているという前提があり、それは間違っている。人は、周りに左右される。その行動がまた周りに影響し、人の心というミクロ構造と社会というマクロ構造は互いに連動し、循環している。」と言うものであり、人一人の心だけを入れ替えれば良いと言う考え方では、何も解決しないと云うものである。

確かに、子供達に『命は尊いから大切にしなさい』と言い聞かせても、周りがそうなっていなければ、子供達の心は変わらない。勉強はやる気だと云う考え方で以って、わが子に心を入れ替えさせようとしても、なかなかそうならない。『心でっかち』では解決しないことは、納得出来る。

しかし、何事を解決するにしても、『頭でっかち』だけでもいけないし、要するに、頭と心のバランスを取って、どちらにも偏らない対策が必要だと言うことであろう。