日本社会で生じる様々な事件、事故、トラブル、話題について、古き善き日本の情緒を愛する一人として考察するところをコメントしたいと思います。
王ジャパンとジーコジャパンの比較
これは結果論である事を断った上で、感想を述べるものである。
私は、ブラジルとの最終戦は、眠気に勝てず、見れなかった。決勝トーナメント進出の希望が30%でもあれば、或いは日本贔屓(びいき)が眠気に勝ったかも知れないが・・・。結局ジーコジャパンは、一勝することもなく、予選リーグを最下位で姿を消したのである。

世界一になった王ジャパンと決勝トーナメントにさえ進めなかったジーコジャパンとの差は、監督の能力・力量の差と、イチローと中田英寿の差であったと言って良いと思う。勿論、他の選手達の力量に差がある事も否定はしない。野球の方は、本場の大リーグにおいてもスタープレーヤーであるイチローがいる、松井がいる、以前は野茂投手もスターであった。少なくとも、最高レベルの大リーグでオールスターに選出される選手を輩出して来たのが日本のプロ野球なのである。それに比べて、サッカーの方は、チームの中心戦力として捉えられている選手は皆無である事は勿論のこと、レギュラーの座を確保することすら難しいと言うのが現実の姿である。従って、選手達の力量においても差があることを認めざるを得ない。しかし、何よりも、サムライ軍団としての団結力、チームワークが明らかに違って見えたのは、私だけでは無いだろう。サッカーのサポーターの団結力は、野球ファンのそれよりも強いものがあり、いつも感心させられているが、肝心のプレーヤー達に団結力を感じる場面には今回も遭遇出来なかった。

それは、監督のスポーツ哲学の違いなのかも知れない、行き着くところは日本とブラジル、と、監督が育ったスポーツの国柄の差かも知れない。それは、ジーコ監督の敗戦談話に端的に現われている。彼は、「ブラジル選手が能力を発揮した時は、こういうゲームになる。ロナウドはゴールがにおうところにいられる選手だ。彼がうちにいれば、違うチームになっていただろう」と言った。サッカーも、ベースボールもチーム同士の闘いだ。一人で勝てるはずがない。ロナウドがゴール出来るのは、ロナウドにゴールチャンスを与えるように他の選手が動いているからだ。プロ同士の闘いは、一人のスタープレーヤーだけで勝てる程には甘くは無いと思う。スタープレーヤーを何人も集めて低迷したプロ野球チームがあったのを思い出して貰いたい。サッカーも全く同じことだと思う。

ジーコ監督は、これからもヨーロッパの地で監督を続けると云う談話を残しているが、上述のようなコメントを出すようでは、彼が監督として活躍出来る場は世界の何処にも無いだろう、私はそう思う。

全敗の要因は、それに加えて、中田英寿の存在にあると思う。私は彼の技術の高さを感じる場面を何回か眼にしたことは事実であるが、しかし、彼のボールには、心が籠もっていなかった、即ちゴールシュートを決めて欲しいと言う切なる気持が籠もっていなかった。味方選手を奮い立たせるようなパスボールは無かった。ロボットが蹴ったようなボールで、生きたボールではなかった。王ジャパンのイチローは、WBC期間中は決して調子は良くなかったが、他の選手を奮い立たせ、サポーターをも熱狂させる何かがあったと思う。去年までのイチローと中田英寿の評価は、共に冷静で余り感情を表わせない一匹狼の同類項だと見られて来たと思うが、奇しくも、今年同じく開かれた世界大会で、全く異なる評価に変わったのではないかと思う。

王・イチロージャパンとジーコ・ナカタジャパンの結果の差は、チームの団結力を重視したかどうかによるものであり、それは、詰まるところ、リーダーシップの差だったのだと思う。
続―心の闇と云うけれど
奈良県田原本町の医師方が20日早朝に全焼し、母子3人が死亡した火事で、奈良県警は22日、京都市内で保護された長男(16)を殺人と建造物放火容疑で緊急逮捕したと云う。行方不明時点では、優しく、礼儀正しく、有名進学校に通う成績が良い子と言う報道しかなく、その行方不明の長男による事件であるとはとても思えなかった。

しかし、逮捕されてからの、『父も現在の母も共に医師で、実母は離婚して居らず、可愛がっていた弟・妹ともに腹違いの関係、通学している中高一貫の有名進学校では中位の成績、通常の寝泊りは学校に近い祖父母宅であった』と言う報道を聞けば、短絡的思考ではあるが、「あゝ、そう言うことだったのか・・・」と、私は無責任かも知れないが、頷かざるを得なかった。

マスメディアは、又、例によって『心の闇』と言う言葉で片付けようとするだろうが、これは『心の闇』が照らし出されたのではない。「何処にも居場所が見付からない、そしてこれからの居場所さえも見えて来ない」事に関する、少年の心の叫び声が事件と言う行動によって発せられたのだと思う。疎外感と云う言い方もあるだろう。

父親の期待(医師になって欲しいという)に副(そ)うことが出来そうにない自分の不甲斐なさ、そう言う自分が父の継母への引け目になっているかも知れないと云う被害者意識などがあり、犯行当日の午後に行われる予定であった「学年保護者会」(高校に保護者が呼ばれて中間試験の成績が渡される会で、母親が出席する予定)が犯行へ背中を押した可能性がありそうだと言うことである。

私も高校1年生になって直ぐに、勉強の成績について密かに悩んだのだと思う。「だと思う・・・」と言うのは、はっきりとした意識は当時の自分には無かったが、視神経に異常(物が異常に小さく見える時があった)が生じていたので、振り返って、そう思うのである。プロフィール欄に記載している私が卒業した県立長田高校は、神戸の第三学区ではトップの公立高校であったが、学区内にある中学校のトップクラスが進学して来ているので、学年410人の中で、二桁の成績順位を保つのは容易な事ではなかった。私のようなのんき坊主が、そんなところに放り込まれたために、かなりの不安感に苛(さいな)まれたのだと思う。ましてや、二つ上の兄は、学年で1、2番を争っていたから、余計に精神的に追い込まれていたのだと思う。そんな時に、もし親から厳しい言葉を投げかけられていたならば、そして、精神的拠り所の母がもし継母だったとしたら、私だって、どんな行動に出たか分からない。

当時の私は母子家庭で、不幸中の幸いながら、厳しい父の存在は無かった。そして、教育熱心な母ではあったが、愛情一杯に見守ってくれたお蔭で、結局は成績優秀の兄と同じ大学に進学出来るまでになれたのだと思う。

今、私は塾を開講して主として小学生の高学年を教えているが、10歳から16歳位までは、自我意識が芽生える一方、自分に確固たる自信を持ち得る訳では無いと思う。『心の闇』という簡単な言葉で片付けることなく、微妙に揺れる少年・少女の心と、しっかり眼を見開いて、耳を澄まして向き合ってあげたいと思う。

そして、秋田の事件も含めて、最近は、疎外感が色々な事件を起こしているように思う。そういう疎外感が日本の至る所で人間を追い込んでおり、事件と言う形で噴出しているのだと思う。それだけ、精神的余裕のない社会にもなったと云うことだろうし、短絡的思考の日本社会になったと云うことであろうか・・・・。
死刑について
光市の母子強姦殺害事件について、昨日最高裁が、高裁の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。常識的には、高裁に死刑判決を促したものと思われる。
この最高裁の審判に、弁護側と教戒師の僧侶が異議をコメントしたが、世界を見渡せば、死刑を認めない国も多々あり、日本でも、死刑反対を唱える団体もあり、意見は半ばすると思われる。

正直言って、私も結論を出せていない。何故かと言えば、今はどちらかと言えば、消極的死刑容認派ではあるが、立場が変われば(自分若しくは親族が死刑宣告を受ける事になれば)死刑反対派になり得るし、もし家族が殺害事件に遭遇すれば必ず死刑希求派にもなるからである。しかも、いつ何時、立場が変わるか分からず、現時点で信念のある見解を示す自信は無いからである。

人の命を奪う行為(殺人)を死刑で罰すると言うのは、ある意味では論理的ではない。「命を大切にせよ、命は地球よりも重たいのだから」と言うならば、国家権力で、犯罪者の命を簡単に奪ってはいけないと言う考え方は論理的で至って説得力がある。

しかし一方、「そんな尊い命を理不尽に奪ったからこそ、本来は奪ってはいけない(殺人犯の)命を奪わざるを得ないのだ、そうしないと、殺人行為に対する抑止力が働かないのだ」と言う論理も認めざるを得ないのである。

民主主義社会においては、様々な人間が存在する。そう言う世間がうまく運営されるには、やはり決め事、即ち法律がどうしても必要になる。そして、法律を守らない者を罰する規定が無ければ、法律を制定する意味は無くなるのである。日本も、江戸時代までは、個人が個人を裁いても良いと言うことで、殺人行為に対しては仇討ちが認められていたのである。そして、それに代わって、裁判制度が出来たと聞いている。

私は消極的死刑容認派であると言ったが、死刑が殺人行為を抑止する効果が統計的に認められるならば、と言う前提がある。同列には扱えなないかも知れないが、酒気帯び運転に厳しい罰則が設けられてからは、極端に減っているはずである。身近で催される宴会の時の対応を見れば明らかに激減している事がよく分かる。また、ごく最近施行された駐車禁止の監視強化も劇的な効果を齎していると聞くし、これも身近で効果の大なる事を感じている。

罰則は、適用された本人の再発防止は勿論であるが、他の人への抑止力を期待してのものである。人が人の命を絶つと言う罰則は、酒気帯び運転や駐車禁止の罰則と並列には論じてはならないとは思うが、絶大な抑止力として効果を発揮していることは紛れも無い事実だと思う。

2009年から、全ての成人国民は意志の有無に係わらず裁判員に任命されることになっている。死刑宣告は、他所事(よそごと)ではないのである。大いに関心を持たねばならないのである。私も、消極的死刑容認派で居るべきかどうかを、少し時間は掛かるが洞察を深めたいと思う。
福井さん、あなたもか?
先週の国会、政界は、日銀総裁の福井氏の村上ファンドへの投資1000万円問題に明け暮れた。与党の公式コメントは、『日銀総裁就任前の投資行為だから問題は無い』と云うものであった。しかし、国民感情に配慮して、「李下に冠を正さずと云う故事もあり、就任時に解約等の処理をしておく方が好ましかった」と言う補足コメント付きであった。多分、多くの与党幹部の本音は「責任を取って自ら辞任を表明して欲しい」と言うものであろうが、ただ、そうすれば、小泉さんの任命責任問題にもなりかねないので、そうはならない。福井氏も、本音は辞任したかろうが、株式市場への影響を含めて経済界にどのような悪影響が出るか分からないまま、責任上、辞任発表は出来ないし、勿論、小泉さんの花道を汚したくはないだろうから、色々と情勢を見極めているところだろう。
与党幹部は、ルール上問題は無いと言うが、今年2月時点で投資の解約を申し入れたのが事実ならば、むしろそれは、総裁在任中の投資行動(お金を動かすと言う意味では、新たな投資も、投資中止も投資行為だと考えられるからだ)だとも考えられるので、これはルール違反ではないかと思う。
ホリエモンも、村上少年も、自分はルールを守っている積りであるが、客観的、結果的にはルール・法律を破った事になっている。そう言う意味では、福井総裁も、全く同じケースではないかと思う。

東大卒、或いは東大入学出来るほどの秀才達は、頭の回転が良いだけに、ルール・法律を勉強し、逆手に取って、財を形成させ、社会的地位も獲得するのであるが、日本を代表するエリート達には、ルール・法律を守る事を行動基準、人生を渡る上での基準とせずに、もっと志を大きく、日本国全体、国民全体にとっての善悪・損得を基準にして貰いたいものである。
危険予知活動(KYK)
大方の大企業では、KY活動なるものをして、未然に事故を防ごうとする。今はどうか知らないが、私がサラリーマンであった少なくとも昭和60年代はKY、KYだったと記憶している。危険のKiの頭文字と、予知のYoのYの頭文字、そして活動のKaの頭文字を取って、KYKと云うだけの事である。
それに加えて、「ヒヤリ、ハッと運動」と言うものもあった。職場で危い目に遭って「ヒヤリ」とした事、「ハッ」とした事を現場の人に申告して貰い、大事故に至る可能性あれば、前以て対策すると云う素晴らしい考え方の労働管理である。

現在、事故・事件が頻発しているが、企業内で行われる危険予知活動、ヒヤリ・ハット運動を我々の日常生活に取り入れることで、かなり防げるのではないかと思う。
エレベーターによる死亡事故などは、報道から察するに、危険予知と云うよりも、既に危険が発生していたと考えるべきであろう。エレベーターメーカーも、メンテナンス業者も、そして利用者さえも、危険を目の前にしながら、死亡事故の発生を予知出来なかった事は、被害者に対して申し開きは出来ないのでは無いか。

近年目立つ、幼児・少女・少年の殺害事件にしても、その何件かは、未然に防ぎ得るものでは無かっただろうか。

そして、これら事件・事故も決して他人事ではなく、私の身の回りにも確実に起り得る事として、気配り、目配りを強める必要があると思う。

勿論、余りに神経質になると、何も出来なくなるし、人間不信の殺伐とした社会にもなりかねない。しかし、かなり神経質にならなければならない危険な日本社会になっていると認識を新たにする必要はあるのではないか。
こころの闇とは言うけれど・・・
少年・少女の殺害或いは自殺事件や、尋常ではない事件の動機を云々する際に、マスコミは決まり文句のように『心の闇』と言う言葉を使う。私の住む極近辺で起こった、あの神戸の少年の事件の時から、その傾向は著しい。
今回の秋田の豪憲君を殺害した畠山鈴香容疑者に関しても、動機が解らない今、『心の闇に迫る』と言う言い方で、ワイドショーで常連のコメンテーター達が動機を推測しようとしている。
我々世間一般の者も、同じ様な人間が周りに居る可能性もあり、その被害者になりかねない立場から、またそれに野次馬根性も加わって、その動機に関して、無関心では居られない。

しかし、私は考える、『心の闇なんて無い』と・・・。何故かならば、皆同じ人間であり、犯罪者も犯罪者でない者も、同じ煩悩を抱えた人間であり、犯罪の動機を訪ねれば、心の奥底に皆持ち合わせている煩悩に行き着くはずであるからである。煩悩にも色々あるが、仏教の深層心理学と言われる『唯識(ゆいしき)』は、我痴(がち)・我愛(があい)・我見(がけん)・我慢(がまん)を4大根本煩悩としているのであるが、これは人間ならば例外なく、皆持ち合わせているのである。一つに纏めて言うと『我執(がしゅう)』である。『自己への強い執着』『全てに優先する自己愛、自分が一番可愛いと言う心』である。「いや、私は、自分より子供が可愛い」と主張する人があるかも知れないが、これも「自分が苦労して産み、そして育てた子供故に可愛いと言う、要するにこれも自己愛、自己への執着が出発点となっている」と『唯識』は考察するのである。
全ての犯罪は、この根本煩悩が源(みなもと)に在ると断言してもよいだろう。その考え方を基として、犯罪を起こした犯罪者のその時点の状況・環境・立場、育てられた親との関係を洞察すれば、真の動機は見えて来ると思う。

鈴香容疑者が、子供の彩香ちゃんが事故死よりも事件死である事を主張するのは、事故死では、自分の立場が悪くなるからだと推測出来る。彩香ちゃんの死は、殺害事件に極めて近い事故死と言う見方があるが、恐らく、その事故に鈴香容疑者が絡んでおり、その追求から逃れたいために、事件死を主張し、更にそれを演出し証明するために、豪憲君が犠牲になったのだとしか考えられない。

私も車を運転するが、もし、何か自分に落ち度があって人を跳ねたとしたら、その現場から早く立ち去りたいと言う感情と、良心との瞬時の闘いになると想像する。ひどい事故であればあるほど心の葛藤は激しいものだろうと想像する。殆どの人は、結果的には良心に従う事になるのであろうが、「ひき逃げする運転手の気持ちが分からない」と言う奇麗事は言えないのではないか・・・。

自動車事故の場合は、動かぬ証拠が車に残り、取り繕うことは出来ない故、この延長線上に、彩香ちゃんの事故死・過失死があるとは断定出来ないが、鈴香容疑者が、事故死よりも事件死を主張する心を理解しようとすると、自己防衛本能に答えを求めると、すっと決着が付き、『心の闇』と言う言葉は無用のものとなるはずである。豪憲君の殺害を認めた自供も、まだ嘘で固まっているとしか考えられないが、真実の全面自供は時間の問題であろう。

この事件を教訓として、自分も他者も我執の強い人間である事を前提として人との付き合いを考えねばならぬ日本社会になったと言うことを肝に銘ずるべきではないかと思う・・・。
秋田小一事件
秋田県藤里町で小学1年米山豪憲君(7)が殺害された事件で、2軒隣の畠山鈴香容疑者(33)が死体遺棄容疑で逮捕され、本日、殺害に付いても自供したと言う。畠山容疑者は、豪憲君が殺害される1ヶ月前に事故死したとされる畠山彩香ちゃん(9)の母親でもあり、豪憲君の死と彩香ちゃんの死に何らかの関連があると見られている。
私は、5月21日のブログで、『報道から推測するに、見知らぬ者による犯行ではなく、極々顔見知りの者である可能性を否定出来ないと思うのであるが、地域の人々の精神的動揺を思い遣ってか、マスコミもそう言う憶測は控えているようである。かなり早い時期に、意外な犯人が逮捕されるのではないかと思う。』と書いた。畠山容疑者も可能性として含んだ推測であったが、普通の人間の神経では考えられない犯罪であり、「まさかとは思うが・・・」と言う前提付きであったと言うのが正直なところである。
報道を見聞する限り、嘘ばかりのインタビューであった訳であるから、咄嗟の衝動的な犯行と言う自供内容も勿論疑われて当然であり、どなたかが言われていたが、彩香ちゃんの死も、事件に限りなく近い事故死ではなかったかと言うのが大方の見方であろう。

神奈川県で、母親が実の娘さんを殺して半年近くも遺体を部屋に放置していたという事件もつい1ヶ月位前に一頻りワイドショーの話題となっていたが、この母親と、何か生い立ちが似ていて、10代で親元を離れて就職し、簡単に結婚して、そして簡単に離婚していたところなど、随分似通っていると思った。

どちらも普通では考えられない、そして決して許せない犯罪であるが、彼女たちの生まれ育った環境、結果的には人との不幸な出遇い、直近の借金地獄の生活等を考え合わせると、生まれ付きの犯罪者ではなく、不幸な縁の数々によって、そうならざるを得ない必然性、即ち自分では如何ともし難い状況に追い込まれたと思うのである。

人間は、出遇う縁によっては、何をしでかすか分からないと言う考え方がある。私は、たまたま犯罪に至る縁(環境、条件)に回り逢っていない、と我が幸運に感謝すべきだと思う。

これからの事情聴取によって、動機も含めて、事件の全容と真因を明らかにし、今後多発しないためにも、国民に広く知らしめなければならない事は、勿論である。
村上少年、君もか?
堀江貴文君に続いて、つい1週間前までは飛ぶ鳥を落とす勢いと見えた村上世彰氏が逮捕された。天罰が下るとか言った人も居たと言うことであるが、彼は天罰とは思っていないのではないかと、最後の記者会見(らしい)を見ていて、私はそう感じた。
株式投資の世界から身を引くと言う『潔さ』と『清清しさ』を私は感じたのであるが、専門家から見ると、とんでもないらしい。

インサイダー取引の確信犯であり、村上ファンドを護る為の演出・演技だと言う見方をする人が多い。まぁーこれは、これからの事情聴取、公判で明らかにされるであろうから、具体的には何も事実を知らない者が評論すべきではないだろう。

私が気になっているのは、彼の発言の中に、「お金を儲けることは悪いことですか?ルールを守ってお金を儲けるのは悪いことでしょうか?」と言う記者諸君に対する、或いは世間に対する逆質問があったことである。
彼は私よりも15歳下であるから、ニクソンショック、オイルショックを経て高度成長期をまっしぐらに走り始めた昭和50年頃、彼は丁度、灘中灘高の生徒であった。
大人達は企業戦士と言われて仕事に追われ、家庭にあっては、マイホーム・マイカーを求め、電化製品を買い求めた頃に、彼はそんな大人の背中を見て育った人間である。ましてや、貿易商を営む商売人の子供であった彼は、お金が唯一の価値だと洗脳されたのではないかと思う。頭脳明晰故に、他者よりも現状認識と先見性は鋭かったに違いない。

「資本主義社会は、お金儲けが悪だと言うことになると成り立たない」だろう。金儲けせずして生活出来るのは、国民の税金から給与が支払われる公務員と坊さん位なものだろう。村上氏は、資本主義社会がどういうものかを知った上で、知らないであろう世の中に向かって正論を述べた積りなのだ。資本主義社会における正論であるから、居合わせた誰からも反論は出なかった。いや資本主義社会で生きている者に反論が出せるはずが無いのである。

それはそれとして、村上氏の誤解は、「お金儲けをする村上ファンドが悪いと世間が思っている」と思っているところにある。そんなことは誰も言っていないのではないだろうか(まぁ妬み嫉みがあったにしても、であるが)。阪神タイガースファンの気持ち、企業現場で汗水たらして働く人々の気持ち、企業ブランドを守って来た歴代の経営者の気持ち等、古来日本が大切にして来た情緒を無視したように感じる村上氏の言動に反感を持っているのだと私は思っている。

お金儲けに関して頭脳明晰ではあるが、上述の如き世間の常識に照らしての自己分析が彼には出来ないのだと思う。そして、お金儲けと言う行為にも、お金自体にも善悪は染み付いていない。それらの善悪は、人間性とコンビを組んで漸く分かたれるのである。その人間がお金をどのように使うかによって、悪になったり、善になったりするのである。
堀江、村上両氏の5年後、10年後の成長を見れたらなぁーと思う次第である。
やっぱりイチローは凄い
メジャーリーグが開幕して2ヶ月になる。開幕から1ヵ月半位は、イチローの調子が悪く、心配したファンも多いだろう。対照的に調子が良かったWBCに参加しなかった松井選手と比較してしまうだけに、何とか頑張って、WBCでの世界一の価値を下げないようにと祈ったのは私だけでは無かっただろうと思う。
しかし、その心配は全く杞憂に終わった。打率も例年通りの3割に復帰し、安打数もトップに躍り出たのである。
やはり、打撃技術を究めていると言うことだろう。イチローの辞書にはスランプと言う文字は無いと言う事があらためて実証された。

それにしても、マリナーズは弱い、弱すぎる。頼りになる4番打者が居ない。打者では、一番バッターのイチローと三番バッターのイバニエスが頑張っているが、二人だけではどうにもならない。投手陣に至っては、エースも居ない、セットアッパーも居ない、クローザーも居ない、ないないづくし。これでは名捕手城島選手も、手の施しようが無いので、可哀相だ。

イチローも城島も我慢して、来年の補強選手に期待しよう。決して、ヤンキースなんかには、行かないことだ。イチローは、ヤンキースには似合わない。